2年ぐらい前に、嫌いなタイプの人間について考えながら人間を分類してた。
まず、公正世界信念みたいなのを持っちゃってるとなかなか厳しいという話がある。
- 俺は正しく努力したから正しく成果を得られた
- だからお前もできるはず
この2段階目によって有害な感じになってしまうんだけど、それは置いておく。有害なものへの嫌悪から「有害だから」を取り除いて考えるのは難しいし、いわゆる(嫌悪以外の)負の感情を喚起させられて消耗することになる。
一般には、嫌悪自体が負の感情を喚起させてアレなんだろうけど、自分はあんまりそういうことはなく、むしろ嫌うだけで済むものは積極的に嫌っていくべきで、「何が好きかより何が嫌いかで自分を語れよ」と思っている。好きなものについて語るのは困難だし、逃れようのない嫌悪みたいな感情との付き合い方がうまくなれたほうが生きやすい。「嫌悪」という言葉に含まれる「悪」のほうについてもだいたい同じように考えてはいるが、ここでは「嫌」だけの意味で「嫌悪」という言葉を使う。悪いことをする人間だけど嫌いじゃないことあるよね。無いと生きづらそう。人間は悪いことをするので。閑話休題。
さて、件の2段階目を発動させず、かつ、自分が嫌っているタイプが存在していて、そのあたりを考えていたら分類してしまっていたという話が本題。これはおそらく、良くも悪くも自分が興味を持つ人間を分類していて、興味を持てない人間について考えるのは難しそうだね。そしてもちろん(?)グラデーションがある。そういうときは「分類」と言わないほうが良さそうな気もする。後で考える。
- 世界を攻略しようとしている人間
- 世界を作ろうとしている(あるいは否応なくその制作にぶちこまれていると認識している)人間
- 世界を理解しようとしている人間
- 世界で遊ぼうとしている人間
攻略しようとしている人間だけは世界を壊したがらない、という形の理解が生まれたのが面白かった。壊さなくてもいいんだけど、ひとは作るために壊すし、理解するために壊すし、壊して遊ぶ。世界は完璧ではなく、単純なアドオンとして成立する改善は稀だから、世界の全てを保存しようとするとすれば現状肯定への偏りが大きいことになる。さすがに諸々から目を背けすぎでは、という偏見が生まれる。そういうのを前提に、攻略対象だから壊したがらないんだね、と思わされるあたりで嫌いになってる模様。
自分はどうかというと、理解しようとしている人間で、遊ぼうとしている側に寄っているものの、作ろうとしている人間の半分ぐらいを見上げている。ちなみに、作ろうとしている人間について考えようとして失敗したのが今日の午前で、午後は頭を整理するためにこれを書いている。
2年前に考えたことの続きをちょっとだけ進めると、ここから抜け落ちてるものというか、まずほとんどの人間は世界じゃなく個々の人間を相手にしていて、そのスタイルこそが生き方の柱になってるかもしれない。まあでも、公正世界信念に絡めとられるのは個々の人間の相手しすぎだからでしょ、みたいな悪口が咄嗟に出てきたので反省している。そんな雑なことを言ってはいけない。
たぶんいつも以上に「考えるのが困難なことは考えない」みたいな話が出てきているけど、それはこれが考えるために書かれた文章ではなく、考えたことを書いている文章だからだろうなあ。後者のスタイルで前者をやろうとして午前中は失敗したような気がする。俺はこれ意図的に使い分けられるのか?